9月2日の日記
2007年9月2日(一般)病院は人が死を迎えるにふさわしい場所ではない。
というと、いいすぎだろうか。
そんな医師ばかりではないことを百も承知だが
それでもあえていうと
医療側は、えてして「病気」や「臓器」の状態に関心があっても、
「その人」自身には関心はない。
「延命」に対し義務をおっているかもしれないが
「死に際し、その人が本当は何をのぞんでいるか」
ということも、しろうとはしない、というか、そんなことはきくまでもないとおもっているのであろうし、そこまでしることは彼らの仕事ではないという認識もあるであろう。
どんな人生を送ってきて、どのような信条をもち、
どのような死をむかえたいと思っていたとしても、
まったくそれらは彼らの埒外のこと。
むしろ、それを彼らに求めるのが酷というもの。
助産師かつシュタイナー教育者である
ラヒマ・ボールドウィン氏の友人で
ホスピスに勤めている人が
「私たちは死ぬことへの助産婦」という人がいるそうだけれども、
生まれいづるとき、そして死にゆくとき、
深い理解者、そして信頼できる人が傍に居ることは、
なんとこころやすらぐことであろうか。
私は、自分の死に際しても
その当事者でありたい。そう、思っている。
というと、いいすぎだろうか。
そんな医師ばかりではないことを百も承知だが
それでもあえていうと
医療側は、えてして「病気」や「臓器」の状態に関心があっても、
「その人」自身には関心はない。
「延命」に対し義務をおっているかもしれないが
「死に際し、その人が本当は何をのぞんでいるか」
ということも、しろうとはしない、というか、そんなことはきくまでもないとおもっているのであろうし、そこまでしることは彼らの仕事ではないという認識もあるであろう。
どんな人生を送ってきて、どのような信条をもち、
どのような死をむかえたいと思っていたとしても、
まったくそれらは彼らの埒外のこと。
むしろ、それを彼らに求めるのが酷というもの。
助産師かつシュタイナー教育者である
ラヒマ・ボールドウィン氏の友人で
ホスピスに勤めている人が
「私たちは死ぬことへの助産婦」という人がいるそうだけれども、
生まれいづるとき、そして死にゆくとき、
深い理解者、そして信頼できる人が傍に居ることは、
なんとこころやすらぐことであろうか。
私は、自分の死に際しても
その当事者でありたい。そう、思っている。
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