母を見てくれた最後のヘルパーさんとは
色々ありましたが
本当に、あの人にみてもらえて
良かったと思ってます

あの人は
えてして問題のないように
本人の意向にそってやるヘルパーさんが多い中、
食べ物のこととか
生活習慣のこと
辛抱強く、
母に、よかれと思うことを
やってくれていました

そしてなにより
母を「子ども扱い」しなかった。
それまで2時間単位で来るヘルパーさんの中には
猫なで声で赤ちゃんに接するように喋る人、

”自分の作りやすい”食べ物だけ作って
さっさと帰る、という人、

文字通り、何もしない人。。

いろんな人がいました。

あの人は、
母と時に衝突しながらも
人と人の付き合いをしてくれました

本当に、ありがとう、。
というのか。

今まで知らず知らずのうちに、
封印していた、ということか。

最近、母はよくこうしていた、とか
ここの手すりにつかまっていたな、、
とか

その声と、光景が
最近、
ふいに目の前に戻ってくるようになって。。

人からすれば
不自由な体、、
でも、母は必死に
生きようとしていた。
生を、まっとうしようとしていた。

いろんな思いがあったと思う、

日常生活の全てを
人に頼らなければできないという現実に

あきらめや、悲しさ
色んな感情があったろうに

私が驚くほど
平らかな心で
澄んだ瞳で。。

父をなくした後
母にとって
私との時間
それが
人生の全て
だったのでしょう・・

母は、
あの家以外の場を
自分の居場所とする事は
できなかった

私が彼女を死に追いやったも同然という事実

重苦しいまでの事実をかかえながら
こうやって日常生活を送り
なにくわぬ顔で生きている自分

いったい、私は、
母の死に値する
人生、時間を送っていると
いえるのか

客観

2006年2月20日
であることは 難しいですね
どうしても、自分の主観が入ってしまう

過去と向き合うこと
それも、まだ 生々しい 激しい痛みを伴うもの
冷静に、時系列で
事実を 第三者に分かるように
書かねばならないとわかっていても

それは今の私にとって
一番辛い作業でした

でも、自分がやりたいと思ったことをすすめていくには
必要不可欠なこと。

2月16日の日記

2006年2月16日
母のなにげない一言一言は含蓄にあふれ
 私に気づきと勇気を与えてくれ

母の笑顔は私の中の
 ネガティブなものを一瞬のうちに全て洗い流し

母を抱きしめたときのぬくもりは私に
 このうえもない幸福感をもたらしてくれました
 

ふと、

2006年2月16日
涙が止まらなくなる

ずっとそばにいてくれた、愛する人

そんなに大切な人に
いってしまった言葉が
時を越えて自分の胸につきささる。

余裕がなかった、
自分のせいなのに。

私に対し
決して不平不満を表さなかった母
いつもかわらぬ愛情を降り注いでくれた母

どんな思いで私の言葉を聞いていた・・?

祈り

2006年1月20日
小さい頃は、仏間は「特別な時のための場所」「ちょっとこわいところ」という風に思っていました。恐れ、というより、畏れ。。
(そういえば、「いけない子はお仏壇にとじこめるよ!」といわれた・・ような?)

でも今は、父母とゆっくりと向き合える、
かけがえのない場所になっています。

もちろん、いつも父母の事は心の中にあって
今でもふとした瞬間に思い出がよみがえり
涙がこみ上げてくることはあって・・

それでも・・父母の魂の安寧をひたすら願う祈りの時間は
いつの間にか私自身にも
恩寵のように・・心の平安を与えてくれているような気がしています

1月12日の日記

2006年1月12日
道を歩いていると
つい、お年寄りに目がいってしまいます

大丈夫かな、横断歩道、信号の間に
わたりきれるかな、
とか

一生懸命杖を突きながら歩いているのを見て
転ばないように、、これからもがんばって・・と
心の中で応援したり。

思えば、
つい去年まで 当然のように送っていた生活と
今はあまりに違う生活になってしまったけれど
日々の、介護の辛さ、みたいなものは見事にすっかり忘れてしまって
色々悩みながらだったけれど
一生懸命毎日毎日生きていた、そんな実感があったなぁとか
雪が降ったら、雪が降ったねぇ、
お正月が来たら、まっさきに「あけまして、おめでとう。今年もよろしくね。」とお互いにいいあい、
嬉しいことがあったら
喜びを分かちあい
悲しいこと、苦しいことがあったら
分かち合い、支えあう人がいたことの幸せを、
今更ながらに思う、日々です。

四十九日

2005年12月16日 コメント (2)
この週末に、四十九日の忌明け法要があります。
もうそんなにたったなんて・・

無事終わることを祈るばかりです。
手配に落ち度がなければよいのですが・・

越路吹雪

2005年11月30日
先日、テレビでやっていましたね。

母がファンで、母自身、彼女の歌をよく、
歌っていました。

小さい時のことなので記憶も曖昧ですが、
二度ほど、リサイタルにつれていってもらっています。
(ちょっと、自慢だったりして)

まさに、毛皮と香水、
大人の世界だった、そんな記憶のイメージがあります。

母は、どのドレスをきていったのでしょうか・・

普段の生活は質素でしたが、
子供の欲目(?)かもしれませんが、
いったんそういう場に出ると
母はとても美しく、華やかな人でした。
(あ、そういう場だけでなく、いつも!)

よくお店で、女優さんにまちがわれてました。
(残念ながら私は両親のどちらにもにていないのですが・・)

母には、小さい頃、よく
そのほかにも歌舞伎やバレエやオペレッタに
つれていってもらっていました。

とにかくお行儀よくしなきゃいけないんだということを
思っていたのを覚えています

ドラマのお陰で
そんなことを思い出しました。

CDをかって・・
これから折に触れ
彼女の音楽を
母の写真の前で
かけたいと思います。。

11月30日の日記

2005年11月30日
saraさま

本当に、親はかけがえのない存在ですね。

時をこえ、様々な場面において
両親の言葉、行動やその考え方が
お手本になっていますし
(もっとちゃんときいておけばよかったと
今になってしみじみ思います・・)

その生死をかけて
色んな事を指し示してくれているのですよね。

あふれるばかりの愛情を注がれ
共に喜び、共に笑い、悲しみや苦しみを分かち合い
支えあってきた時の事を思うと
涙がかれる事はありません・・

ほとんど医療事故である事を思うといたたまれなくて、、
後悔の念がつきることはありませんが
でもせめて
母の晩年を共にすごせたことが
今の私の支えになっています

自分がこれからどのようにいきていくのか
老いを迎えていくのかを考えると・・
これからも
母と共にいきていく
そんなような気持ちがしています・・

11月24日の日記

2005年11月24日
どうして人は
私をかわいそうというのだろう
(私の気持ちをおしはかる、というより・・
同情・・?)

確かに
広い家に一人残されて
とか
介護の為に結婚できなくて
とか

それぞれの自分の価値観の中で
思ってくれていることなので
気遣ってもらっていること自身には
ありがたいと思うのだけれど。

私は母の介護に携わることが出来て
母と、この上もなく
濃密で、幸せな時間が持てました

母と共に生き、そして最期をみとり
その中で

やはり
私は支えていたのではなく、
支えられていたのだということ

母の生き様は
これからの私の老いの道しるべでもあること

生きるということ
死ぬということそして介護を
正面から見据える機会を
与えられたという事

これから自分の最期の時まで
一生かかって、わかるかわからないかほどの、大きなものを
教えられ、授けられているのだということを

今、実感しているのです

11月22日の日記

2005年11月22日
複数の
期限のある事が
仕事以外にも色々あって・・

でもこのお陰で
紛らわすことが出来ている事も
あるんだろうなと思う
毎日です

るなさまへ

2005年11月11日
メッセージのみ

お葬式という場は

2005年11月10日
いろんなことが
見えてくる場でも
ありますね・・

そして
今までいかに自分が
親の庇護の元
すごしていたかも・・

こんなときたよりになるのは
いつか父や母が
していた事。。

父や母が見守ってくれているのでしょうか
不思議に、
やらなければならないことが
思いつくのです

至らないながらも
なんとか葬儀を終えることが出来たのは

有形無形に
助けてくださった方達のおかげ。。

手伝いを自らかって
駆けつけてくれた
友人たち、そして会社の人たち

温かく見守ってくださった
近所の方々

温かい言葉をかけてくださった皆さん

そして
どこかで父母が
見守っていてくれたということなのかも・・
しれません。。

本当に
人の情けがこんなに身にしみた事はありませんでした。。
なのに、どうしてでしょう、

なぜ、母ともう会えないのか
葬儀を終えた今でさえ
まだ
理解できていないのです

彼の事をいったこと
それによって拒食へとつながったこと
そして、あの病院にいれたこと

どれをとっても
自分を責めずにはいられず

自分だけ生きているのが
いたたまれない気持ちでいっぱいになります

母の犠牲の上の
自分だけの幸せなど
ありえるのでしょうか

こんな自分に
生きていく価値があるのでしょうか

自分も一緒に連れて行ってくれと
何度遺影に向かい
願っていることでしょう

母は、私のことを
とても愛してくれていました
おそらく、
私の元を離れることが
耐え切れなかった・・

私には、気を使ってはっきりとはいいませんでしたが
それを私は
気づくべきだった・・
しっかりと
認識すべきだった・・

あんなに深い愛情でもって
慈しみ育ててくれた母の
心からの願いを
聞き届けることが
でききらなかった

あの時
家に連れて帰るという決断をしきれなかった私は・・

何をもってして
罪をあがなうことが出来るのか
いや、
その罪を
一生抱えていくことになるのでしょう

そして
残された家の中で一人いて・・

この家を一人
管理していくことの重さを
そして

亡くなって、
改めて身にしみる
親の愛と
偉大さとに

圧倒される思いがしています

メッセージのみ

2005年11月2日
本当に、ありがとうございます

涙が

2005年11月1日
とまりません。。
不思議ですね、
どんなにないても
まだでてくるなんて・・

思えば

2005年10月20日
弁護士といい
医者といい

自分にとって”いい”先生、
求めるものを得られる人と出会えるのは
奇跡に近いことなのかも
しれませんね・・

母の年代の人たちは
”先生”のいうことはまちがいないから・・
と、彼らにその運命をゆだねてしまう人が
多いように思うのですが

やはり、こちらも
色々勉強して
自衛していかないと
いけないように
おもいます

病院というところ

2005年10月20日
たいていの人は
病気をなおしたくて
というか
病を得て、やむをえず、病院に入るのだと思います

でも、入院することで
その病そのものはよくなったとしても
年をとっている人の場合、入院をきっかけに
体全体の機能が低下してしまうのも事実です
(自宅で体を動かしているのとは違い、病院では
”なにかあったらいけない”し
”看護しやすい”ように
結果的にじっとベッドでしばりつけられるから・・
自宅でトイレにいけた人でも、おむつをあてられてしまえば、
あっというまに寝たきりになってしまいかねません)

一日でも早く、病院から母を出したいです
今日、切に、そう思いました。
友人を送った後、病院へ。
そうしたら・・
母は・・

(容態が急変していたとか
そういうことではないのですが、、新たな問題というか、
対処に苦心しそうな事が持ち上がっていて・・
本当、何かしらあるものですね・・)

そのことについて付き添いさんと
とりあえずの対処方法を相談しつつの帰り道
兄や姉の話になり。

私は・・

彼らがどういう行動を、そして態度をとろうと
期待もしないし何も感じないようにしていると・・

そして
母は
老いを生ききるということの現実、
その生き様を私に見せてくれていることで
はからずも私に
自分の生というもの
老いというものを冷静に考る機会を
与えてくれていると思っている、ということを話しました

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